みずいろの世界(紺野藍の文章)

紺野藍の文章です。主に短歌

映像的な短歌とは何か(越冬隊vol.2 『Walk Along』奥村鼓太郎)

〈『Walk Along』奥村鼓太郎を読んだ〉

越冬隊vol.2(2022年2月19日〜25日にかけてネットプリントにて配信)、奥村鼓太郎さんの『Walk Along』を読んで、すごく映像的な短歌で連作だなあと思った。

しばらくして、映像的な短歌(と連作)ってなんだろ?と思ったので、じっくり考えてみることにする。

〈映像的な短歌ってなんだろ?〉

『Walk Along』は基本的に、作中主体「ぼく」と「君」が海に行って帰ってくる1日のストーリーに沿って連作が進んでいって、その時々で「ぼく」の心情や連作にとって重要なモチーフが差し込まれる、というような作りかたをされている。

無駄のないフォームで無線イヤホンを外して君がふと笑うまで

この歌は50首中3首目に置かれていて、最初に「映像!」と思った歌。

歌われている内容はすごく些細で「君」が無線イヤホンを外して笑うのを「ぼく」は見ているということなんだけど、この短歌を読んだときすごくなめらかに情景が浮かぶなと思う。

おそらく【君が無線イヤホンを外して笑った】という文章を読んで思い浮かぶシーンよりずっとずっとなめらか。

このなめらかさって何によって起こされているんだろ、と考えたとき、的確かはわからないんだけどフレーム数なのかなと思った。

〈短歌とフレーム数の関係〉

映像はパラパラ漫画みたく1枚1枚の写真や絵が重なってできている、その1枚と1枚の(時間的な)間隔が短いほどするすると動く。

原則文章は文字数を増やせば増やすほどフレーム数を上げやすい。言葉をたくさん使って描写するほど動きはなめらかになる。だから文章においてフレーム数を増やす行為と音数に制限がある短歌はあまり相性がよくない。難しい。

でもこの歌はそれをやっていて、成功していると思う。短歌なのにフレーム数が多い。

【君が無線イヤホンを外して笑った】で見えるのは、①無線イヤホンを君が付けている、②君が無線イヤホンを外す、③君が笑う、という主に3つくらいの大きなコマだと思う。

でも実際は【君がイヤホンを】【外して】【笑った】動作の間にいろんな動きや感情が挟まれていて、その動きや感情をこの歌は捉えている。

それじゃあどのようにすれば文字数とフレーム数の比例関係をぶっちぎって、短歌で多くのフレームを用意できるのか。

この歌においてそれは言葉えらびの巧みさと思う。

〈言葉えらびによって文字数とフレーム数の比例関係をぶっちぎる〉

無駄のないフォームで無線イヤホンを外して君がふと笑うまで

まずは「無駄のない」という言葉に注目したい。

先ほど、文字数は増やせば増やすほどフレーム数が増える、短歌の場合はそれがしにくいと書いた。ならば短歌でフレーム数を増やすには、三十一音の中に、ぎちぎちにたくさん説明的な言葉を入れ込めばいいかというと、そうではないことをこの歌は示している。

「無駄のない」は「無駄のない」ことを意味する。

もっと分解すると「君」が無線イヤホンを外すとき、その動作が、「君」が無線イヤホンを外そうと思って右手を右耳に持ってゆき、それを外す、外した無線イヤホンをケースに入れて、そしてもう片方の無線イヤホンも外して、無線イヤホンをケースにしまう(もちろん左手や右手や右耳左耳の順番は問わないしケースにしまわないタイプの無線イヤホンでもよいのだけれど)、その一連の動作に一切の迷いがなく、手が無線イヤホンを外すための最短経路を通っている、ようなフォームだと思う。

それくらいの情報量を「無駄のない」という言葉はふくらみとして持っている。

つまり「無駄のない」という「フォーム」に対しての説明は、たった五音の言葉ながら、非常にリアルにまるで目の前でその動作が行われているように、「君」のフォームを読み手に見せることに成功している。

もしかしたらわたしが思う「無駄のないフォーム」とあなたが思う「無駄のないフォーム」は違うのかもしれないのだけれど、別にそれはよくて、というかこの「無駄のない」の表現は人が思う何万通り?何億通り?の「無駄のないフォーム」を一手に引き受けて存在している。

あえてそのフォームに細かな指示が入らないからこそ、読み手の想像の中で「君」はなめらかに動いて、その動いている時間がわたしたちに手渡される。わたしはそれを映像的だ、と感じたんだと思う。

〈「まで」の示す時間の幅〉

そしてもうひとつ、この短歌を映像的にしているなと思うのが「まで」という言葉の持つ時間の幅。

これは今さら説明を重ねるほどでもないが、この歌で時間を示すとき「まで」を選択したのが絶妙でいいなと思った。

「まで」という言葉には、ある一定の時間の流れが組み込まれていて、加えて「まで」で何かが区切られることで、その動作や状態が特別に意識されるという作用があると思う。

例えば【今までありがとう】と言ったとき、ある過去の時点からありがとうという言葉が発された瞬間までの長い時間の幅は区切られる。そしてそれによって過去から今の時間がつながっていることに意識的になる、みたいな感覚になると思う。

【駅まで行こう】と言った時も同様で、別に駅は今いる場所からじゃなくて、家の近所のコンビニからでも全然行けるんだけれど、【駅まで行こう】と区切られたことによって、現在地から駅までの道のりは独立して頭の中に現れると思う。

この歌において「まで」で区切られているのは、【君が無線イヤホンを外す】⇨【ふと笑う】という時間。たぶんすごく短い時間だ。10秒もかからないかもしれない。「君」は無駄のないフォームで無線イヤホンを外すからなおさら。

でもあえてその短い時間を「まで」で際立たせたことで、この時間のフレーム数は増す。すごく大切っぽく、ゆっくりとその動作が見える。その時間の特別さ、神聖さ、みたいなものが受け取れる。

〈【見ている】歌が多いこと〉

ところで、この連作には主体が【見ている】短歌が多いと思う。

視覚を使った歌がすごく多いだけではなくて、主体がきちんと【見ている】と描写されている短歌が目立つ。

海沿いをゆく電車から海沿いのおおきな霊園が見えて隠れる

君が身を乗り出していて遠景としての海しか見えないけれど

ありえないぐらいに長い青信号を見送っている夏の最中に

遠目からでもバレーボール部だとわかる集団を視界においておく

かかりつけ皮膚科の明かりが見えている 行かないときも混んでいてほしい

髪型が寝癖になってゆくまでを見届けてから瞼をとじる

日本人メジャーリーガーのリプレイが繰り返されていて、全部見る

50首のうち7首だからかなり高い割合だと思う。視覚情報が歌の要素として入っている短歌になるともっと多い。

赤色のビーチボールが浮かんだり沈んだりしている そろそろ行こうか

この歌も主体は【見ている】。見ていると書いてないだけで、主体は「赤色のビーチボールが浮かんだり沈んだりしているところを【見ている】。

だけどやっぱり【見ている】と描写されたとき、見た先の光景はよりクリアに見えてくると思う。

私たちは見ることを普段なんとなくやっている、起きて目をあければ風景が飛び込んできて自動的に見ている。それが自然だから、何かを見ようと思って見ること、さらにその上で短歌上に【見ている】と描写されるのはそれだけ特別なことだ。

それをこの主体はけっこうな頻度でやっていて、それによって読み手も主体が【見ている】先の景色をよりしっかり意識する。この効果も連作が映像的であることに手を貸しているように思う。

〈その他思ったこと書きます〉

最後に思ったことを書いて終わりにします。

映像的な短歌や連作であるということと主体と「君」の二者関係で(連作内)世界の強度を保つというこの連作の構造は相性がいい組み合わせだと思った。

あとこの連作の主体と「君」は男性同士で、そういう部分に対して主体は意識的なんだけれど(「婚姻届」や「ゼクシィ」などが歌のモチーフとして出てくる)、男性同士であることを決定づける

君がおとこでぼくもおとこだから君は裸のまま風呂場から出てきた

という歌が41首目に配置されていることについて、こういう連作にとって重要な要素を落とす歌ってどこの位置に置かれるのがいいのかなと思った。

この連作に限った話ではなく、こういう歌の位置よって読まれ方が変わってくる歌も多かれ少なかれあると思う。どう読ませたいか、というか連作によるのかなあ。

『Walk Along』すごく好きな連作で、好きな短歌もたくさんあってまた何回もたくさん考えると思います。